「アナログあれこれ」 APPLEとの出会い
- 2011/10/31(Mon) -
 
モスクワオリンピックに纏わるアップルのパソコン
 

はじめに
近年、パーソナルコンピュータ(パソコン)は、数十年前の大型コンピュー
タに勝るとも劣らないほどの高性能でかつ小型化されました。
さらにノートパソコンから進化したタブレット端末「iPad」などは、薄型・
軽量で持ち運が楽になり、電車内でも電子化書籍として読書やインター
ネットができるまでになりました。
技術の革新は目覚ましいですが、数十年前ではこれほどのスピードで
進化を遂げるとは予想だにしませんでした。
これからの話は発展初期段階でのパソコンAppleⅡを使って、創意工夫
をしながら何とか課題を乗り越えた話です。
少し専門的な文章もありますが、そこは灰色文字にしてありますので,
難解と思われる方は読み飛ばして下さい。


10月5日に米アップルを創業し株価で時価総額を世界一の企業とした
スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)前最高責任者が死去した。
しかも56歳の若さである。
そのニュースは新聞の1面、テレビで大々的に報道されたので誰しも
ご存知であろう。
IT企業のCEOがこれほどまでに報道されることは,あまり例がないの
ではないであろうか。

彼の業績についてはiPodやiPhoneの爆発的な売れ行きから、社会に
与えたインパクトはいかに大きかったことから伺える。
兎にも角にもこのニュースを聞いて31年も前のことが、まるで走馬灯の
ように頭の中を駆け巡った。

それは正確には1980年7月開催、日本では幻のオリンピックとなった
夏季モスクワオリンピック大会である。
業績向上の旗印に「テレビ朝日」に社名を変更し、またオリンピックの
独占中継の放送権獲得した。
しかし、ソ連が1979年12月にアフガニスタンに侵攻したことで、アメ
リカをはじめとする50か国の国々がボイコットした。
日本も参加しなかったので,国内の放送は、ハイライトや深夜の放送と
大幅に縮小した。このことは社友の方々もよく知るところである。

それではなんでオリンピックがアップルと結びつくのかを話そう。
Apple社は1976年4月に設立され、今回の話の種になるAppleⅡは
製造して2番目の機種で1977年に発売された。
それまでは企業向けのコンピューターしかなっかたが、Appleは一般
向けに「ホームコンピュータ」という位置づけで、だれでも気軽に扱え、
価格も安くというとを主眼に売り出された(写真1)。
その生産は17年間続けられて約500万台もの大ヒット商品となった。
値段は1298ドルである。
日本でも発売されたが現在の円高と違って、そのころは1ドル230円
前後であったので、附属品を入れると当時は50万円近くで、一般向け
といってもかなり高価であった。

Apple本体 
 写真1) AppleⅡ本体
 キーボードと一体で現在のスタイルと
 異なるタイプライターを模したデザイン



 

話は前後するが、オリンピックの中継は衛星を使って行うが、その音声
は英語である。日本語での中継はランドラインで、すなわち地上や海底
ケーブルを利用して送ってくる専用線だ。
そのルートは各国を通りまた沢山の電話交換機を通過しながら接続され
ている。この回線はオリンピックに向けてかなり前から24時間中接続しっ
ぱなしだ。
沢山の電話交換機を経由してきているので、途中のどこかで人為ミスで
間違って切られてしまうと大変なことになる。そこで回線を使用していない
ときには、何らかのIDの音声を流して、どこからどこまでの回線で今使用し
ています旨のアナウンスを 常時流し、切断を防ぐ必要がある。
それにはエンドレスのテープレコーダーで告知音声を切れ目なく流すのが
一番いい。
しかしそこで困った。
常時長期間にわたってテープで流すと、テープの劣化で音飛びを起こして
最悪は切断してしまうという耐久性の問題が浮上した。

何とか耐久性のあるものと模索したが、世の中には適当なものが見つか
らない。それで仕方が なく自社開発 しようということになった。
当時普及し始めていたパソコンは、主にワープロ、表計算、ゲームなどに
利用されていた。つまりテキスト処理が主であった(テキスト処理程度の
能力しかなかった)。
音声処理装置、映像処理装置への応用などは、まだまだ先の話だった。
しかし記録時間が短く、音質もさほど問わない(高圧縮が可能) ので
音声IDの分野であれば、パソコンでの処理が可能と考え、パソコンによる
開発に踏み切った。
パソコンはAppleⅡを採用した。
幸い同じ職場の北沢昌彦氏が個人で高価なAppleⅡのコンピューターを
持っていてソフト開発にたけて いたので、お願いして、自分はハードの
製造に携わった。
AppleⅡのメモリは48キロバイト(現在のパソコンのメモリは数ギガバイト、
ギガはキロの 千倍の千倍です。すごいですね!)で、音声を高圧縮しても
数秒しか録音できなかった。
音声IDの条件としては「発局名」、「受局名」、「回線名」の録音が最低限
必要であり、数十秒録音、つまりメモリを数倍増設する必要があった。 

記憶素子としては、その頃のものは今みたいに小型のハードディスク(HDD)
などはない。出たての5インチのフロッピーディスク程度であった。
本体の半導体記憶素子(ROM)も容量不足で頼りない。
やむを得ず音声を記録するメモリー部分を増設、
それをアナログからデジタル信号に変換する、またアナログ信号に戻す
(A/D & D/Aコンバータ)などの
装置は自作するしかない。
まずはプリント基板から製造しなければならなかったが、母親を温泉へ療養
に連れて行った先の宿で、懸命にプリント基板のレタリングをやるほど差し
迫っていた。

ついに、プログラム、プリント基板、A/D & D/Aコンバータなどが完成(写真2)
即実験となった。
当然のごとくトラブルが続出。録音した音声が時間と共に少しずつ壊れて
いったり 、(データーが徐々に消えてゆくコンピュータの出来あがり)、
エンドレス部(録音の繰り返し部分)で大きなノイズが発生したり等々。
また、ROMに焼き込むさい、(ROMにデータを記録する事を焼くと言います)
ROMの接続位置を間違え、ROMを本当に焼いてしまったり(本物の煙が
出た)など、今では笑える話も多々あった。
ハラハラしたが、どうにか期限内にトラブルを解決。

Apple_Audio      

 写真2) エンドレスID送出機
片袖ラック付きテーブルに組み込んだ

左上がAppleⅡその上にフロッピー
ドライブ中央がモニタ右側がスピーカー
右下にカセットデッキ、ID録音・再生装置
最下部に部品や取説などの収納の引出 




アナウンサーにカセットテープへ録音をお願いして、それを半導体のメモリに
録音してやっと完成した。
苦労した甲斐もあって長期間にわたってトラブルもなく回線維持に応えてくれた。

この時期には国産のマイコンもあったがAppleⅡには特記すべき特徴があった。
一つはオープン化(ハード図面、システムモニタのソースリストが公開され他社、
マニアから多くのハードやソフトが開発された)であり、さらには、ソフト&ハード
の汎用性の高さである。
この事が多方面への応用、長期にわたる利用を可能にした。

ホームコンピューターのApppleⅡは、現在のようなパソコンには当然到底かな
わないが、マザーボードに拡張基板を差すことによって、容易に機能を拡張でき
る柔軟性があったからこそ、要望に応えられたといっても過言ではない。

自作Apple_1 




 写真3) 自作AppleⅡクローン
 20数年ぶりに電源を入れたら正常に
 起動し「ApplⅡ」の文字が表示された


自作Apple_2  
        








                                                     
                                                                     写真4) 内部の様子                                                                                                                                      このころは専用LSIがないので汎用の                                                                                                ICを多用しているので数が多い。
 
暫くしてプリント基板だけのクローン製品が出て早速製作した(写真3)。
この頃のプリント基板は粗悪で、断線したりしていて、苦労の末やっと完成し、
ピンポンやインベーダーなどのテレビゲームを楽しんだり、応用プログラムを
制作した。
社友にゲームなどでマイコンにのめりこんだ方は多かったのではないだろうか。

AppleⅡはパソコンを勉強するきっかけを作ってくれ、その礎(いしずえ)になった
ことには間違いがない。
iPodやiPhoneの流行には無縁でも、今でもS・ジョブズ氏の誰でも気軽に扱える
ホームコンピュータの開発努力には感謝している。

おわりに
何せ31年以上前の事で記憶が定かでない、それで北沢氏に原稿を見て貰
ったところ、特に訂正はないがもう少し詳細にということで、加筆をしていた
だきました。ご協力を感謝いたします。


幹事 菊地 記 

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「アナログあれこれ」
- 2011/09/13(Tue) -
『ホモちゃんの天気予報』

石坂和子

 
電話が鳴った。
「ホモちゃんの天気予報」の担当は石坂さんでは?
との新里さんからのお尋ねだった。
私ですとお返事した。

知らない方は「ホモちゃん」とは何やら怪しげに響くだろう。
「ホモちゃん」は太陽に目鼻を書いたような森永のマークで、
「ホモジナイズ」牛乳の乳脂肪を均一化する意味から来ている。

開局当時、社内は混沌としていた。
社員か、スポンサーか、はたまた代理店の人か、
よくわからない状態だった。
ある日廊下で呼び止められた。
「アナウンサーさんに仕事を頼むにはどうしたら良いですか」
「アナウンス課の課長にお話しになったらいかがですか、
何人かアナウンサーはおりますから」
「あなたでいいのです」と男性は言った。
それが「ホモちゃんの天気予報」の始まりだった。

当時の私を知る人はすぐ分かる事で、
私の顔はテストパターンといわれるくらい丸く、
「ホモちゃん」に打ってつけだったのだろう。
夕方3分間の「こども天気予報」では、
予報、天気にまつわる「一口メモ」を顔出しでスタジオから放送した。

最初、メモは電通の方が書いた。
そのメモが渡されるまで、私は勤務が終わっても帰れない、
そこで「よろしければ私が書きます」と申し出た。
番組は記憶では3ヶ月ほど続き、
百科事典を見て何十本かの「一口メモ」を書いた。
気象について知識もない私がよくも書けたものだ。
内容については誰のチェックも経なかった。
なんと鷹揚な時代だったことか。

担当は私一人、休日は無し、3分間のために毎日出勤となった。
この天気予報の最初の二日は失敗した。
一日目はデレクターとコンタクトミスで話を途中で止めてしまい、
二日目は子供向けのゆったりテンポで時間切れ。
以後ミス無しで放送することができた。

この最初のミスが教訓となったのか、
その後、他の顔出しのすべての番組で、
時間通りに終わらせる事ができた。
3、2、1、30秒前、カット、すべて上手く言った時の快感!
主婦時代、ピンチピッターで番組の収録を経験したが、
生でない事は何と、緊張感が薄いつまらないものかと思った。
天地創造のような開局の数年は本当に楽しく、
未熟な私を育ててくださった当時の方々に感謝致します。

homo2.jpg


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新里事務局長の呼びかけで
石坂さんより、素晴らしい原稿が届けられました。
当時の様子がうかがえる貴重な内容です。
この記事を読まれた会員さんで
記憶が呼び起こされた方がおりましたら
文章にしていただき、事務局まで連絡ください。
内容は問いませんが、アナログ時代の出来事限定です。

皆様からの投稿お待ちしております!
(事務局 成田)
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新里:第1話目
- 2011/08/10(Wed) -
「ウォーキング」参加懺悔録の末文
「スカイツリーを間近に見ながら
開局当初の東京タワーにまつわる話は
暑さの中の涼風でした」の
”まつわる話”が知りたいとの要望がありました。
ここで要約で披露しよう。

開局当初の中継放送は
東京タワーが直視できないと放送出来なかった。
事件事故現場からの中継はこの見極めを
的確にする職人技が勝負を決めた。
その達人たちは今も元気だという。
東京タワーに最初に情報(天気)カメラを設置したのは
NET(現テレ朝)だ。

発案は自宅の屋根に上ることも出来ない
高所恐怖症の報道・スポーツ課長江間守一氏(故人)だ。
氏は何事も「はじめて」にこだわるチャレンジャーだった。
ビデオも通信衛星も無かった開局からの6か月
山岳中継番組を放送して話題となった。
東京タワーにまつわる話は、
放送技術の進歩で姿を変えてきた番組制作の話になった。

一方では経営を支える視聴率至上主義が
視聴者に媚を売る体質を生み、
番組は低俗化し制作スタッフの心まで蝕んだという
経営体質にまで及んだ。
話は転々、
職場には減点主義と自主規制がはびこり、
制作現場からサムライ達が去っていった。
生活が安定すると「金持ち喧嘩せず」で
無難なものづくりから類似番組が増えた。
テレビ草創期は道具も経験も未熟で生活も貧しかったが
他局の真似は意地でもしない虚勢を張ったと息巻いた。

------こんな話がうだる暑さの清涼剤になったのである。

事務局長:新里

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